~宮地陽子のGO FOR 2020~海外日本代表候補選手奮闘記
伊藤拓摩「自分なりの“sense of purpose”」
伊藤拓摩「自分なりの“sense of purpose”」
「僕、ぞっとするんですよね」
伊藤拓摩は、穏やかな笑みを浮かべながら、そんなことを言った。自分の過去を振り返り、違う道を進んでいたらどうなったのかと考え、恐ろしくなるときがあるのだという。
ひとつ目の例としてあげたのは、中学を卒業してすぐにアメリカに渡ったこと。コーチになりたいと思うようになったきっかけでもあり、高校、大学と、アメリカのコーチたちから多くのことを学んだ。大学ではコーチになるための勉強にも励んだ。確かに、その後の人生を左右する大きな決断だった。
伊藤が2つ目にあげたのは、自ら選択したことではなく、むしろ思うようにいかずに、悔しい思いをした出来事だった。
伊藤は、2015-'16と2016-'17の2シーズン、アルバルク東京('15-'16はトヨタ自動車アルバルク東京)のヘッドコーチを務めた。この2年とも、接戦の末、あと一歩のところでリーグ決勝進出を逃していたのだが、「あの時に、もし決勝に進んでいたらと考えるとぞっとする」と言うのだ。
「決勝に出ていたら、優勝していたかもわからない。そうしたら、そのままコーチをやり続けていたかもしれない。でも、コーチをやり続けていたって考えると、本当に怖いです」
この心境を理解するには、当時の状況の説明が必要だろう。
■「『俺はコーチとして生まれてきた』ぐらいな(笑)」
伊藤がアルバルクのアシスタントコーチからヘッドコーチに昇格したのは、彼がまだ33歳のとき。そしてその翌年、伊藤にとってヘッドコーチ2シーズン目は新しく始まったBリーグ1年目というタイミングだった。
Bリーグの記念すべき開幕戦のカードを戦うチームとして選ばれたアルバルクは、田中大貴や竹内譲次、松井啓十郎といった日本代表級の選手たちや、元NBA選手のディアンテ・ギャレットがいて、マスコミから「エリート軍団」と呼ばれる注目チームだった。
ヘッドコーチ2年目にして、日本バスケットボール界でこれまでにないほどの注目と期待を担うことになったのだ。
高校のときからコーチを目指していた伊藤は、そんな状況にプレッシャーを感じながらも、自分のコーチングに絶対的な自信をもっていたのだという。そんな時、突然、チームから解任を言い渡された。
「当時は今より自信家で、不安がなかったんです。おおげさに言うと『俺はコーチとして生まれてきた』ぐらいな(笑)。でもクビになったことで、自分の悪いところが色々と見えてきたんです。それで自信を失い、メンタル的にも落ち込むこともありましたけれど、でも、今となってはよかったと思っています。これを気づかずにずっとコーチしていたら、ただの裸の王様になっていました」
■「もし海外挑戦するならサポートしたい」とも。
もっとも、伊藤がアルバルク東京のヘッドコーチを解任されたのは、Bリーグ初年度の優勝を逃したからではなかった。実は優勝どころか、まだレギュラーシーズンを戦っている最中に、シーズン後の解任を告げられたのだ。
「(2017年)4月半ば頃にチーム側から、結果に関わらず、来季は新しい体制でいきたいと言われました」と伊藤は振り返る。
解任通告の一方で、チームからは「もし海外に挑戦するならサポートしたい」とのオファーをもらっていた。それでも気持ちを切り替えるのは簡単ではなかった。シーズンはまだ続いており、自分の進退がチームに悪影響を与えてはいけないとの思いもあった。しばらくはまわりの誰にも、家族にすら打ち明けられなかったという。
「2週間ぐらいもやもやしてから、家族に言って、アシスタントコーチ陣に伝えて。こういう状況だけど、切り替えるしかないなっていう感じでしたね」
■アルバルクは「日本のバスケットを引っ張る」。
アメリカに再び戻ってコーチングの勉強をしたい、知識をアップグレードしたいという気持ちは以前から持っていたという。とはいえ、コーチをしながらではその道を模索する時間的な余裕もなかった。そういった意味では、いいチャンスではあった。
伊藤はコーチ退任後、1年余の準備期間を経て、2018年秋に渡米した。
知り合いのつてなどを使っていくつかのチームや関係者に当たった結果、ダラス・マーベリックス傘下のGリーグ・チーム、テキサス・レジェンズが受け入れてくれたのだ。レジェンズの本拠地、テキサス州フレスコの近くにトヨタの北米本社があったことも有利に働いた。
肩書はアシスタントコーチ。といっても、GリーグではNBAのように役割や仕事がはっきり決まっているわけではない。シュート練習のリバウンダー役から、ワークアウトのサポート、対戦相手のスカウティングまで、ヘッドコーチから頼まれたことは何でもやる。遠征はすべて同行する必要はなく、その間に気になるチームの練習を見学させてもらうなど、自分の勉強に時間を使うこともできる。昨シーズンは八村塁がいたゴンザガ大の練習を見学した。
研修として送り出してくれたアルバルクにも、選手のスカウティングレポートに加え、アメリカで見聞きしたこと、考えたことをレポートとしてまとめ、今後に向けての提案も積極的にしているという。
サマーリーグ中は、マブズのサマーリーグ・チームに入った馬場雄大(元アルバルク)の通訳としてサポート役を務めた。
「アルバルクの活動理念のひとつとして、日本のバスケットを引っ張る(『バスケットボールの強化に努め、アルバルク東京が活躍することでリーグ、バスケットボール界を牽引します』)っていうのがあるので、僕もアルバルクに貢献し、日本のバスケットに貢献したい。僕がアメリカに来たことに、ちょっとでも価値を感じてもらいたい。僕としては、こういう人が必要だと思って、次の人に新しい仕事を作れるのが理想なので」
■「米国で客観的に日本のことを学べた」
今回アメリカに出てきてみて、日本では学べなかったことにはどんなことがあるのだろうか。そう聞くと「日本のこと」という答えが返ってきた。アメリカに出てこないと日本のことを学べないとは、いったいどういうことだろうか?
「アメリカに来て、客観的に日本のことを学ぶことができました。日本では当たり前のことがアメリカでは当たり前じゃないんです」
わかりやすい例として、伊藤はアメリカ人選手と日本人選手のオフェンスに対するメンタリティの違いについて語った。
「アメリカに来て『こいつら、常にシュートを狙っている』と思った。当たり前なんですよ。でも日本人って、シュートを狙わない。たとえばAというセットオフェンスしたときに、アメリカでは最初のパスでもあいていたら打つんですよ。常にシュートを狙っているから、それが当たり前なんです。
でも、日本人はAというプレーをやることが大事だから、そのAというプレーの中で、ここでシュートを打つ(と決められた)ところまで打たないんです」
日本でも「アグレッシブに」「攻め切れ」といった指示が飛べば、選手たちもアグレッシブに攻めることを意識する。しかし、どんな選手でも常にシュートを狙っているアメリカに戻ってみて、実は日本人選手がシュートを狙っていないという事実が改めてわかったというのだ。
「それって、日本にいたときは気づかなかったです。シュートを狙わないなんて思わなかったんですよ」
アメリカで、知識としても学んでいることはある。スカウティングをすれば最近の傾向はわかるし、知識としては積み重なってもいる。しかし今の時代、そういった知識は実はどこにいても学べるものだ。
「でも、肌感覚で学べるものは実際にアメリカに来ないと無理ですね。アメリカに限ったことではないと思いますけれど」
■「(代表チームは)すべてが変わったと思います」
この数年で、日本のバスケットボール界は大きく変わった。と同時に日本代表も変化し、男子代表が自力でFIBAバスケットボール・ワールドカップの出場権を得るまでになった。伊藤自身も、渡米前にW杯アジア予選のウィンドウ1から3まで、サポートコーチ兼通訳として代表スタッフに入っていた。
「代表は大きく変わりましたよね。すべてが変わったと思います。僕も少し関わらせてもらって、選手の代表に対しての思いを感じました。みんな自分のためじゃなくて日本のために戦うという気持ちは、プレーの中にも見えるんですよね。発言とかでもそうです。それは応援しているほうにも伝わると思いますし、そこはすごいなって。大きく変わったんじゃないですかね。
もちろん、今までの人もそういう気持ちでやっていたとは思うんですけれど、Bリーグになって注目されるようになって、自分だけじゃなく日本のためにというのを、選手がより強く思うようになり、それをより強く表現できるようになった。そこはすごいなとは思います」
■八村塁や渡邊雄太が引退した後に……。
そのうえで、これからの課題は、常にアジアでトップになれる代表であり続けることだと言う。
「ニック・ファジーカスが引退して、八村塁や渡邊雄太が引退した後にも、ああいった人材が育つような国でなければいけないと思う。偶然にファジーカスが日本人になったり、偶然に八村塁っていう選手がアメリカに行って育ってきたというのではなく、必然的にそういった人材を作れる環境。選手だけでなくてコーチも。そうなってほしいんですよね」
ビザの関係で、伊藤のレジェンズでの研修は2020年春でいったん終わる。その後の道については、ヘッドコーチにこだわらず、広く選択肢を残しておきたいという。
「アメリカに来る前までは、ヘッドコーチとしてまた日本に戻りたいというのがあって、そのための知識をと思ったんですけれど、実際にアメリカへ来てからは、ヘッドコーチにこだわる必要はないと思うようになった。もしかしたらGMなのかもしれないし、どういう形でバスケットに関わったらより日本のバスケットに貢献ができ、自分の持っている知識や人脈を生かせるのかなっていうのを模索中です。もしかしたら、アメリカに残る形を取るかもわからないし。
もちろん、自分の情熱とか、純粋に夢中になれることと考えたらコーチの仕事なんですね、やっぱり。でも、『日本のバスケットボール界に自分が一番貢献できるのが何なのか?』と考えたときに、それがコーチなのか、それともそれ以外の方法があるのではないかと模索しています。今までコーチ一筋の考え方でしたけれど、もしかしたらヘッドコーチよりも貢献できる方法がほかにあるんじゃないか、という疑問を抱けるようになりました」
■「自分が高校のときに思っていた志に戻った」
そもそも、高校の時にコーチを目指そうと思ったのは、自分が得意なバスケットボールの知識を生かして社会に貢献したいと考えたからだった。それが、自分なりの“sense of purpose”(使命感)だと考えていた。
「自分が高校のときに思っていた志に戻った」と伊藤は言う。
そのためにも、アメリカにいる間の一番の目的としているのは、幅広い人脈を築くことだという。
「できるだけ多くの人と繋がりたい。Bリーグ1年目のコーチをしていたときに、いろんな人からお食事のお誘いをいただいても、シーズン中だからって断っていたんですけれど、今思うと、すごくもったいないことをしたなと思う。人から学ぶことがすごく多いし、人と繋がれば繋がるほど、自分が貢献できることも増えるというのを、こっちに来て改めて思います。
たとえば中学生がアメリカの高校に来たいとか、高校生がプレップに行きたいとか、たとえばBリーグの選手がアメリカでワークアウトしたいとかっていうときに、結局、僕がいろんな人を知っていたら紹介してあげられるし、逆に、アメリカのいいコーチが日本でクリニックをしたいということなら、そこも貢献できる。自分の知識という部分でも、いろんな人の考えが聞けるっていうのは大きいと思う。そういった意味では、とりあえずいろんな人と知り合って、いい関係性を築けるっていう、そこが一番かなと思っています」
そうやって、多くの人と繋がり、人の話を聞き、自分がどうやって貢献できるかを改めて見つめなおす。そんな時間を、伊藤は「自分探しの旅」と表現した。
「僕は、まだ自分探しの旅をしているんで。ほとんどの37歳っていうのは、自分はこういうキャリアを歩んできて、ここでやるというのがはっきりしていると思うんですけれど、まだ悩んで、自分探しさせてもらっている。そういう環境、機会を与えてもらったっていうことには本当に感謝しています」